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ポンパドール・パラソル:野望編

旅行記や建築の話を書くブログです。

(今さらですが)地震発生から一ヶ月の記録

東日本大震災

はじめに

地震発生から二ヶ月が過ぎようとしています。ぼくの生活は、原発への不安を除けばほぼ完全に地震前と同じレベルまで回復しましたが、生活の隅々まで見渡せば、今回の震災に起因する不自由・不便がまだたくさん残っていて、これを徐々に回復していく作業を今後1年くらいは続けていかなければならないのだな・・・と思うくらいの段階にいます。
一方で、ときどき仕事で沿岸部の方まで行く機会があるのですが、未だ復旧の手がかりすら掴めていない地区もあり、本当に暗い気持ちになります。一日も早く復旧出来るよう、ぼくも仕事を通じて貢献しているつもりですし、今後も続けていきたいと思っています。
今回は、本当に今さらですが、地震発生から一ヶ月の記録を忘れないうちに書いておこうと思いました。以下、twitterで当時のつぶやきを交えながら進めて行きたいと思います。

3/11

地震が発生したとき、ぼくは大学の研究室にいました。ぼくが所属する研究室がある建物は、独自の緊急地震速報システムを備えていて、予想される震度が3を超えたときに速報が流れる仕組みになっています。
そのときは研究室の自分の席で仕事をしていました。瞬間、緊急地震速報が放送され、最初に放送された震度は4でした。大したことはないと思いつつも、近くに置いてあったヘルメットを取って、自分の席から離れることにしたのですが、その10秒後、少し小さなゆれが続いた後、震度4とは思えないほどの大きな揺れが、研究室を襲いました。
宮城県民の中には、「ついに来たか」「これは本物だ」などと思った人もいたのではないかと思います。宮城県は、2000年代に入ってから3回、大きな地震を経験していますが、大被害が予想される宮城県沖地震の再来が、10年以内に90%の確率で発生すると言われていて、こうした大きな地震が発生するたびに「これは宮城県沖地震ではない」と言われ続けてきた経緯があります。
今回の地震での大きな揺れは、ぼくの記憶では2回ありました。最初の1回は、壁にしがみついて何とか持ちこたえました。研究室のパソコンはほとんどがこのときに倒れ、食器棚からは食器が散乱し、床の上には食器の破片が飛び散りました。
多分その5秒後くらいに、もう一度大きな揺れがあったように記憶しています。2回目の大きな揺れのとき、ぼくの机の後ろにある、高い本棚がぼくの席をめがけて倒れてきて、本をぼくの机にぶちまけていました。でも、自分があそこにいたら、と思ったのはもう少しあとのことで、そのときは研究室のほかの学生に大声で呼びかけ、全員の無事を確認しながらゆれに耐えていました。

地震後に撮ったぼくの席。本棚は壁に固定されていましたが、倒れました


▲後で調べてみたら、本当に大きな揺れが二回来ていたようでした。


揺れが治まったあと、すぐに全員の無事を確認し、防災訓練のときと同様、広場に避難しました。点呼を取り、偉い人の指示を仰ぎ、というようなことを一時間くらいやったあと、家族に電話しても繋がらないので、とりあえず車で県南部にある実家に向かうことにしました。
ところが車で比較的交通量の多い道に出るところで、大渋滞が発生していることを知りました。車の中での待機中、twitterでこういうときは緊急車両が通れなくなるので運転してはいけない、ということを知り、夜、比較的交通量が安定してくる時間まで、学校で待機することにしました。学校近くの公衆電話を利用して家族、親戚、恋人などと連絡を取ろうと試みましたが、停電の影響と回線が込み合ってる関係でほとんど誰とも連絡が取れず。そうしているうちに、かつて市内では経験したことのないほどの暗闇があたりを包み、本当に何も見えない感じになったのでとりあえず車の中で待機することにしました。
しばらくtwitterで情報を見ながら、自分が無事であること、雪が降ってきていることなどをポストしながら時間をつぶしました。


twitterの過去のポストを振り返ってみると、こんな内容を地震発生の数時間前にポストしていることを思い出し、思わず苦笑い。
地震当日に耐震マットを買っていたのに、設置はまだしていなかったという。買った水槽には幸い水を入れてなかったので、被害はありませんでした。


少し話は飛びますが交通が比較的安定してきた夜になって、県南部の実家に車で帰宅しました。その道中、地震で道路に発生した亀裂がとても多いのが目に留まりました。ぼくは能登半島地震岩手・宮城内陸地震などの被害調査を経験しているので、その光景のひとつひとつは見慣れたものでしたが、その数はこれまで見た地震の中では飛びぬけて多かったと思います。

実家に着いたのは夜の10時過ぎで、インターホンが停電で鳴らなかったので、扉を強く叩いたのですが反応はなく、まさかと思って近くの病院に走って「うちの家族が来ていないか」と確認したのですが、来ていないというので、懐中電灯の明かりが漏れている隣家の人にうちの家族の安否を訊ねました。地震発生から一時間後くらいにうちの祖母を見た、というので、とりあえず安心し、じゃあどうしようか、と思ったところで実家の中から光が見えました。母が窓から顔を出し、「あら、あんた帰ってきたの」と言い、鍵を開けてくれました。家族全員の無事を確認し、とりあえずほっと一息。
実家にはラジオがあり、今回の地震は被害が甚大であること、津波で沿岸の多くの市町村が壊滅的な被害を受けてることなどを知り、何となくやばそうな雰囲気だけは察知しました。家族と地震時の状況を色々しゃべったあとは、懐中電灯の電池ももったいないのですぐに寝ることに。
ちなみに実家も断水・停電でしたが、母が帰りがけにコンビニで買ってきた食糧と、保存がきくような食品がもともとあったのでしばらくは大丈夫そうでした。

3/12

3/12は実家の食糧を食いつぶすのも悪いと思い、しばらく戻らないが心配しないでくれと伝えて朝早く仙台市に向かいました。
確か、この日はすごくいい天気で、道中周りの建物が壊れていないかなど色々見ていました。ブロック塀がたくさん倒れていたのが印象に残っています。途中、長町で信号待ちをしていると40代くらいの女性が車の窓を叩いてきて、葛岡の方に息子がいるが車もないしタクシーもないから乗せてってくれないか、ということだったので乗せて行くことにしました。国道286号線を西に進むと、道沿いのガソリンスタンドに長蛇の列が。後々、これがぼくたちをどれだけ苦しめることとなるか、まだ知る由もなかったのですが。葛岡に女性を降ろした後、アパートと大学を結ぶ道が封鎖されていることを知っていたので、たぶん直接大学に行ったと思います。
大学に着くと、ちょうど助教の先生も来ていて、今後の対応について色々話しました。ぼくのミッションは研究室学生の安否を確認することに決まったので、車で市内を駆け回り、留学生を中心に、家を知ってるひとのところを回りました。何人かに会って無事を確認した後、少し時間があったのでついでに自分のアパートにも寄りました。電気・水道・ガスは予想通り停止していましたが、ガスはプロパンなのですぐに復旧させることが出来ました。冷蔵庫が止まっていたので生ものはその場で調理し、食器が散乱する中、必要なものだけ車に詰め込み、大学に戻りました。
夕方、大学に戻ると、多くの学生がホールに避難してきていて、発電機が回っていたので携帯の充電とテレビの視聴が出来るようになっていました。そのときはじめて、津波で家が流されていく様子などを見て、いよいよこれは、ホンモノの大震災なのだなと実感しました。
ホールには、概ね研究室の学生が集合していて、皆元気そうなので安心しました。食料の配給もありましたが、手をつけるのも悪い気がしたので乾パンをひと缶貰って、家から持ってきたキャベツを牛角の塩キャベツソースにつけて皆で食べていました。

それと、携帯の充電が出来たので、中国にいて被災を免れた恋人の電話番号を確認して、公衆電話から無事であることを伝えました。心配で夜も眠れなかったらしく、連絡が遅れて申し訳ない…中国でも今回の地震はかなり放送されているようでした。

国際電話も無料だったので、かなり嬉しかった。でも、停電が長引くにつれ、公衆電話も次第に使えなくなっていった記憶がありますが…これは記憶違いかもしれない。
この日はその後、アパートに戻ってすぐに寝ました。電気がないし、やることもないので…
以降、やや駆け足で進みます。

3/13〜17

3/13からは、大学の災害対策本部が立ち上がったのでそこに間借りして過ごすことに(電気・インターネットが使える)。
ぼくの研究分野は地震と関連が深いところなので、大きい地震が起きると何らかの仕事(復旧支援・調査など)がはじまることが常です。自分たちが被災者でありながら、仕事をこなすというのは肉体的にはつらかったですが、精神的には仕事に集中する分、だいぶ楽だったと思います。


仕事は、まず地震情報の収集を行うことだったのですが、これはすぐに終わりました。まだどこもバタバタしているのか、地震情報は気象庁くらいしか出してなかったし、つくばにある防災科学研究所は停電の影響でサーバーに接続できませんでした。それと、3/13は被害情報の収集のために少し県北の方も回りました。


このころから、被災地のガソリン不足が深刻になってきました。

仙台市政令指定都市で地下鉄もありますが、基本的には車社会であり、だいたいの家庭では車を所有しています。単身暮らしの人も、スクーターなどを持っている場合が多く、ガソリンの供給が断たれると身動きが取れなくなってしまうのです。市内のガソリンスタンドには、次の日の営業があるのかすら分からないのに深夜から行列が発生しており、各所で渋滞もみられるようになってきました。並べば並ぶだけガソリンを消費するし、そもそも並ぶだけの余裕もないし、でもガソリンはない…という状況で、日を追うごとに状況が逼迫していく感じが苦しかったです。
3/14からは応急危険度判定という、建物の使用の可否を判定する仕事をしていました。

建物を調査して、こういうステッカーを貼る作業ですね。2000年以降、被災地を見た経験のある方はこのステッカーも御存じなのではないでしょうか。

こうした活動と同時に、情報収集も進めていきました。どうやら津波の被害は本当に深刻であり、沿岸部の市町村では1万人が亡くなったとか、原発が危ないとか。ラジオからは政府や東電やマスコミに対する不満が増えてきたように思います。
原発に対する不安はこの頃から日増しに高まっていきました。留学生の多くは国から避難するよう指示(強制力は各国で差があった模様)があったようで、バスを使って山形−新潟−東京経由で帰国していたようです(東北道が通行止めだったので)。
この辺りから漠然と、本当に原発が危なくなったらどうしようかとぼくも考えていました。実家が仙台より原発に近いところにあるからこっちに避難させようとか、北に逃げよう、でもガソリンないし、東北道は通行止めだし、バスも満員だろうしとか、勝手に避難したとしても補償されなかったらひどい目に遭うとか…結局、結論は「まあいいか」でした。家族にはせめて仙台に逃げるよう促したのですが、体の悪い祖母を置いていけないということでした。


3/15くらいから、電気は復旧したはずです。災害対策本部までの交通はバスを利用することにしました。主要な路線でバスが走り始めたのもこの頃。


結局、グレートバリアリーフ号はパンクしていて使えなかった。ガソリン不足は続きます。
そしてこの頃から、長期戦を覚悟し始めます。
食料については、運よく地震直前に買い込んでいた切りモチがあったのでとりあえず1週間は大丈夫でした。飲み水は地震前に生協で貰った水が4リットルくらいありました。雑用水は、お風呂に溜めてある水があったので大丈夫。あとはサバ味噌・サンマの缶詰等の支給を本部で受けていました。自分は比較的災害強者なので(…というのも何か恥ずかしいですが、被災地での経験は多いし、食料や水の備蓄は平均より多いだろうし、若いし)なるべく配給は受けないようにしていました。被災者なんだから別に受けてもいいとは思うのですが、何というか、矜持というのか、そういうのを精神的な支えにしようとしていたんじゃないかと思います…。

3/17の午前は仕事を休んで仙台の市街地へ。広瀬通の店で念願のシャワーを浴びました。約1週間ぶりで、だいぶイライラしていたのでこれでかなりスッキリしました。15分1000円というのは高く思えますが、この頃の相場はこんな感じだったと思います。


お昼はぼくの好きな牛タン屋に行ったら牛タン弁当を売っていました。お店の人は大忙しで、すごい速さで牛タンを焼いており、大変そうでした。1つ買って食べましたが、あまりに美味しくて、なぜか泣きそうになりました・・・

夜は国分町へ。3/17は精神的にだいぶ落ち着いた日でした。この頃街は殺伐としていたし、個人的にもやや参ってきていた時期だったので。

国分町に行ったらすごく元気が出た

3/18〜3/31



服の臭さに耐えつつも、3/20は日曜日であり、街へ買い物に出かけました。仙台の中心街である一番町では、色々なお店が臨時営業しており、たとえば寿司屋さんがサイドメニューとして出す業務用のから揚げを売ったりしていて、人々の生活のために在庫を放出している例が多かったと思います。ぼくも買いました。

食料の不安はこれでほぼなくなりましたが、そろそろ本当に水とガソリンが無い生活が辛くなってきました。市街地では水は結構出てるところもあったのですが、どうもウチのアパートがある地区は水道の系統が街中とは異なるようで、復旧が遅れていました。自動販売機は電気が復旧している場所では稼動していたのですが、なにせ、流通がほぼ止まっていたので・・・(それでも何故か缶コーヒーだけはあった)。
ガソリンは、2chで情報をチェックするものの、なかなか確実に手に入るところが無いようでした。このとき車にはほんの僅かしかガソリンが残っていなかったので、並んだのに給油出来ないという最悪の事態を避けなければならず、なかなか給油に行けない・・・という状況が続いていました。


そう言えば、この頃から宅配便も業務再開してました。COOPで食料と水(ヴォルビック)を購入して実家に送ったのでした。この頃はスーパーも品薄状態ではありましたが、徐々に通常営業を再開していました。なぜかカップめんコーナーには「赤いきつね」だけが無数に並んでおり、「緑のたぬき」の生産がはじめられない状況を想像しつつ、「黒い豚カレー」のことは完全に忘れていました・・・
恋人とはこの頃ほぼ毎日連絡を取っていて、4/1から東京で仕事が始まるのにあわせて日本に帰るか、それとも就職をやめて中国にとどまるかという相談も。結局、日本に来ることにしたので、急ピッチで引越しの準備もすることに。

3/27には、ついに水が出ました。
流し場の蛇口をひねったあとに、サイフォン効果的な大きな音が鳴り、すごい勢いで水が流れ出しました。ひとまず落ち着いて、どうせ大きな余震があるだろうから流し場や散乱した床を片付けるのは後にして、まずは風呂に入ろうと決め、風呂に入り、ひげを剃りました。個人的なひげの長さ記録を更新中だったので、ひげだけは残しておきたかった気も今思えばするのですが、気持ちが高揚しすぎて正常な判断力を失っていたのだと思います。

3/28には福沢のエネオスに1時間くらい並んだら給油できました。灯油の補給も出来ました。ガソリン、灯油事情はこの週には劇的に改善されたように思います。


復旧関係の仕事では津波の被害を受けた女川町も訪れました。





自分の生活が復旧しつつある一方で、沿岸部ではまだ片づけすら終わっていない状況でした。ニュース等では知っていましたが、あまりの光景に言葉を失ってしまいました。

4/1〜

ぼくは地震発生から、4月2日をひとつのマイルストーンというか、そういう位置づけでみていて、この日までは何とか頑張ろうとか色々思っていたのですが、ようやくこの日を迎えました。4月2日はぼくの誕生日です。結局この日は、帰国した恋人に荷物を届けるべく東京で過ごしたのでしたが、被災した中で迎える、記憶に残る誕生日となりました。

そういえばこの間は、地震前に出した論文の査読意見が問答無用で送られてきたりしていて、復旧の仕事と平行して対応していたので本当に辛かった記憶があります。そのほか、ショートペーパーの執筆や諸々の雑用などがあり、誕生日はちゃんと覚えている一方で、この時期はあんまり記憶に無いのです・・・


4/7は大きい余震があった日です。
この時はアパートでブログを書いていたのですが、かなり大きく揺れました。この頃にはだいぶ揺れへの耐性もついてきていて、携帯電話が使えなくなる可能性を考慮してゆれてる最中に実家にスカイプで電話して無事を確認するという、むだに高いスキルを発揮したのでした。最大震度は6強で、普段ならそれだけでも名前がつくほどの大きな地震ですが、ただの余震扱いされてるところに今回の震災のすごさがあると思いました。
うちのアパートは大丈夫でしたが、どうやら復旧したライフラインがまた停止した人もいたらしく、ぼくだったら心が折れてたかもしれません。

このとき書いていたブログというのは、
落ち着いたらもう一度行きたい東北の観光地
で、たくさんの反響をいただきました。東北地方の復興のために書いた記事なので、たくさんの方に読んでもらえて本当に嬉しかったです。このGWにはたくさんの方が東北を訪れてくださったようですし、この記事を書いて本当に良かったと思いました。


以上が、ぼくの地震発生から1ヶ月の記録です。

おわりに

東北地方太平洋沖地震から一ヶ月の生活をまとめました。
あんまり書いていませんが、原発に対する不安はまだまだあり、予断を許さない状況ですが、そんな中でも被災地の復興に向けてがんばって行きたいと思います。
なお、これ以降、なるべく本ブログでは平常運転を志向して北京旅行記などの続きを書いていこうと思います。その他にも、また東北地方の旅行記なども書いていく予定ですので、今後ともよろしくお願い致します。

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