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ポンパドール・パラソル:野望編

旅行記や建築の話を書くブログです。

嘘をつかない,正直なデザイン,「本気で美しい景観をつくれますか」

まじめな話 建築

日本建築学会の学会誌である「建築雑誌」,忙しくて1月号は放り投げていたけど,手に取ってみたら特集は「新景観」で,かなり面白かった.編集委員会委員長を務める建築批評家の五十嵐太郎さんは,以前こんなことを書いていたので,この特集は満を持してのものだったんだろう.

しばしばイタリアの街は美しいと言われる。だが、ヴィーナスフォートなどの商業空間のように、西洋風の街並みを日本につくればいいわけではないだろう。ローマに住む建築家の知人が、イタリアではあれもこれもではなく、何かの目的があれば、あきらめることを厭わないという。日本には、それだけの覚悟があるのか。イタリアでは、50年以上が経過したあらゆる建物は、勝手に壊してはいけないという法律がある。現在、20世紀の半ばの近代建築(倉庫や工場も含む)も該当しており、開発や建て替えの障害にもなるだろう。これ程思いきった法律がよく成立したなと不思議に思ったのだが、やはりムッソリーニが制定したものらしい。だが、彼の政権が崩壊した後も、イタリア人はこれを自主的に残している。ヨーロッパで感心するのは、いわゆる古い街並みだけではなく、普通の工場や土木構築物も、きれいなプロポーションをもっていることだ。嘘をつかない、正直なデザインの良さをよく知っている。美しい景観をめざしたとき、ガードレールに花の絵をペイントしたり、料金所に切り妻屋根をのせたり、膨大な費用がかかる高架道路の埋設工事だけでは、発想が貧弱ではないだろうか。

五十嵐太郎-本気で美しい景観をつくれますか(強調はぼくがしました)


これは「首都高の下に日本橋」云々の流れで石原都知事周辺を批判する意図で書かれたものだと思うけど,今回の建築雑誌の特集は,かなり気合が入っていて,この辺の景観論,日本の景観の美醜に関する議論における,五十嵐太郎さんの執念のようなものが感じられた.

特集は,いわゆる「工場萌え」「ジャンクション」などの,比較的最近“発見”された景観(=『新景観』)に対する論考が寄せられていて,中でも庵野秀明(映画監督)×五十嵐太郎×石川初(ランドスケープデザイン)の3者対談と,特集冒頭の石川初さんの解題がとても興味深かった.

石川 ― 土木構造物や工場が好きな人たちと、なぜ好きなのかということを話していると、あれはつくろうとしてつくったわけではなく、できてしまった風景で、それは自然の風景と一緒なのではないかということです。その正直な風景のリアリティに人は惹かれるのではないかという結論になりました。
庵野 ― 僕がコンビナートなどが好きなのは、無駄がなく必要なものしかそこにないという機能美なんです。
石川 ― そうですね。一目では、どこがどう必要なのか、わからないぐらい複雑ですが。
庵野 ― それがまたいいんですね。必要だからそこにある、ということは感じられる。
     (中略)
庵野 ― 高速道路や高架橋などもすごく好きなんですが、最近は側壁が丸くなったり、妙なデザインも増えてきていて、特に大泉ICとかは悲しくなりますね。
石川 ― あの環境配慮型のデザインが施された感じですね。
庵野 ― まったく配慮なんてしていないですよね(笑)。むしろ景観を壊しています。初期の首都高などはいいですよね。コンクリートの塊に必要なものだけついている。
石川 ― 機能がそのままです。
庵野 ― 僕は電柱のように機能がむき出しなものが好きですね。
・・・
(p8より)

(強調はぼくがしました)
この引用は少し恣意的に抽出したもので,この後の景観規制に関する議論ではあくまで庵野さんは中立的な立場だった.ただ,電柱やダム・ジャンクションなどの新しく発見された景観に関しては,その機能美を認めている感じ.
この対談と冒頭の五十嵐太郎さんのテキスト,あとは以下に示す石川さんの解題を読むと,何となく「嘘をつかない、正直なデザイン」というものがわかってくる.

 近年、制度としての景観行政が注目され、建築を制限するものとして捉えられることが多い「景観」であるが、本来、景観は建築や土木、都市計画といった、建設し提供する側の思惑を超えて発見され、共有されていくものである。
(略)
「新景観」の担い手には、共通して以下のような特徴が見られる。
 まず、鑑賞の形式や作法が確立していない。これはつまり、景観の発見が現在進行形であるということである。それから、その対象として、意図された造形、意匠に関心が低いこと。むしろ、生活の営みの集積で結果としてできてしまった無意識の造形や、エンジニアリングが卓越したために思わぬ形態をとった造形に「萌え」る、一種の「自然景観」として都市を眺める傾向がある。

(強調はぼくがしました)

なるほど,景観とは自然発生(発見)的なものであり,「美しい国」とか抜かして規制によって景観をかたちづくるのは筋違いで,クソ阿呆のやることだ,ということだろうきっと.これは半分冗談だけど,景観論として思うところはとても多い.「嘘をつかない,正直なデザイン」とは,自然の風景のようにそこにあるべきものがあるデザインであり,「ガードレールの花の絵のペイント」「料金所の切り妻屋根」などと言ったものは,(そのコテコテな感じの味はあるけれど)愚の骨頂である,ということだろうか*1
たしかに,提供側が「美しいと感じて下さいよ」と受け手に媚るようなデザインや,不自然な存在感を放つ間に合わせのデザインは,景観に限らずとても気持ちが悪い.わざとらしさが露骨に出ていて,もうそれだけでおなかいっぱいになることもある.
「ガードレールの花の絵のペイント」「料金所の切り妻屋根」などと言ったものは,明らかにそういうわざとらしい方向に向かってのものだろう.工場とかダムとかジャンクションが美しいのは,石川さんが言うように,それが「生活の営みの集積で結果としてできてしまった無意識の造形や、エンジニアリングが卓越したために思わぬ形態をとった造形」であるからで,この「正直なデザイン」を超える,“美しさが意図された”デザインを達成するには,卓越したエンジニアリングや蓄積された膨大な生活の営みを超えるだけの提供側の本気度が必要なんだと思った.「本気で美しい景観をつくれますか」というタイトルに込められた意図はこんな感じだろうか.
その美醜が霞むほどの多様な目的と価値観が存在する都市という建造物においては,そんなことは到底無理なので,景観のことはさっさと諦めてそれぞれの土地で好き勝手にすればいいじゃん,というのがこれを読んでのぼくの(投げやりな)感想.

追記

実は主にあの庵野さんを交えた対談の内容について言ったつもりでした。対談の中で「生活の営みの集積で結果としてできてしまった無意識の造形(=都市)」と「エンジニアリングが卓越したために思わぬ形態をとった造形(=ダム)」をそれほどの躊躇もなく新景観として一緒くたにしてしまっていた(石川さんの解題はたぶんそこを受けていたんじゃないでしょうか。おそらく最初は「テクノスケープ特集」だったのだと思うのです。)のは、なんというか、ちょっと物足りないな気がしたんです。「心配になった」とも言えるかもしれません。

都市とダムというスケールも質(っていったらアレだけど)も全然違うものを一緒くたにしているとの指摘だけど,あらためて読んでみると確かにねぇ…って感じがした(勿論,通じる部分もおおいにありそう,という前提でだけど).三者対談における話者間の意識のズレみたいなのは薄々と感じていたけれど(五十嵐さん途中で黙っちゃうし…),こうしてちゃんと言語化してくれたid:murashitさんにはまず感謝.どうもありがとうございます.
で,ぼくも庵野さんの飛躍に乗っちゃったわけでとても恥ずかしい感じなのだけど,これについては少し反省しなければならない.こういう都市論とか景観論とか土木系のはとても好きな話なので,ホイホイついていってその勢いのまま短絡的にろくに推敲もせずに書いてしまった.こういう気楽で投げやりなスタンスが楽しいからいつもそうやって書いていたんだけど,いつもの100倍を越えるアクセスがあってこれからはさすがにそれじゃマズイとも思ったので,これからはほんのちょっとだけ考えようと思った.
で,せっかくの機会なのでmurashit先生を仙台に招いたわけだけど,そこはしっかりスルーされたので,ここぞとばかりに引き下がらずに粘着していきたい.牛タン!萩の月!


あと,ブコメであった

あとこれはイタリアがやってることそのものでは?→『規制によって景観をかたちづくるのは筋違いで』

という指摘について少し.
ぼくが書いた『規制によって景観をかたちづくる』行為は,日本の比較的大きな都市でありがちな,今ある景観に対して電線を地中化したり看板規制をしたりといった,新たにコントロールを加えて景観の向上を図る行為を指したもので,イタリアの例はどちらかというと過去のある時点の景観を最上のものとした,規制による景観の維持・保存だと考えているのでこれらは異なるものであると認識してる…とか言おうとしたけど,ぼくは自分の言葉でイタリアなんて一言も言ってないので,まあいいかな,とも思った.ただ,言葉の選び方として,「かたちづくる」は不適切だったとは思うのと,説明不足はあったと思う.ゴメンナサイ.「半分冗談」って書いてるので,その辺は割り引いて読んでもらえると嬉しいです.


で,いろいろアレな点があってさすがにここで言うのは往生際が悪くて少しだけ恥ずかしいんだけど,超ナイスタイミングでmurashit先生がコメント欄で引用してくれている,気が動転して消しちゃったぼくのコメント「景観規制しないほうがいいっていうか,するなら本気でやるべき,それが無理ならハナからあきらめるべき」にあるような,景観論というかこの辺のデザイン論に関するぼくのこういう考え方の部分はあんまり変わってません.
(景観であれ建築であれ何であれ)「嘘をつかない,正直なデザイン」を超える,“美しさが意図された”デザインを達成するには,卓越したエンジニアリングや蓄積された膨大な生活の営みを超えるだけの提供側の本気度が必要だという.

*1:土木構造物との比較には適さない例だけど,電柱埋設とか,高架の地中化といった発想の安易さは同根だという感じかな